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元蔵は馬術に秀で、久留米藩の馬術師範役となります。 彼は馬術を城隆元に学び、その高弟の一人でした。 今夜はこの城家について見てみます。 城家は、肥後の菊池氏の一門で、 その一派が文永5年(1268)肥後国山鹿郡城村に居城を築き、城氏を名乗ったといいます。 時代は下って、11代目十郎太郎の時、豊臣秀吉が九州に下向、 肥後を退去し、筑後国竹野郡石垣村(現久留米市田主丸町)へ住み着きました。 『寛延記』や矢野一貞の『筑後将士軍談』に記載がある 「十郎太郎城跡」「城十郎太郎の居城」というのがそれです。 『寛文十年久留米藩寺院開基』などによれば、 十郎太郎は12年間の石垣村住まいのあと、 慶長5年(1600)肥前国川上郷へ転居したようです。 その後、寛文7年(1667)、第14代十郎左右衛門宗信が、 第三代有馬頼利に取り立てられます。 俸禄150石馬廻組に列せられ、代々馬術師範を務めました。 第17代大八隆元の時、50石を加増され合計200石を給せられています。 宗信の馬術は当初大坪流でしたが、 後に人見流に改め、その孫大八が最も妙技を極めたと言われます。 江戸詰のころ、荒馬のため手がつけられなかった幕府所有の名馬を乗りこなして その名を轟かせたそうです。 そのため幕府に登用されるのを恐れ帰国命令が出され、 二度と江戸行きを命ぜられることはなかったそうです。 文化4年(1807)に死去、享年70。京町の梅林寺に葬られました。 馬術はその子六郎隆経、孫九十九隆光にも受け継がれ、 その門弟は千数百人に及んだといいます。 因みに第19代熊太郎棟隆の時に廃藩置県となりますが、 その子数馬は、司法省に出仕し法律家として活躍しています。 また山岳家として、野草の研究家としても足跡を残しています。 参考文献 戸田乾吉 1895『久留米小史』巻之二十一 吉村駿夫 1983「人物二題-城数馬と仲海蔵-」『久留米郷土研究会誌』12 浮羽古文化財保存会 1953『宇枳波』第2号
by tarov-e-log
| 2009-07-02 22:46
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