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重要無形文化財久留米絣技術保存会主催の 「伝統の技・久留米絣の体験教室」第2回目(全3回)に参加してきました。 前回は手括り(これは大変な作業でしたが)、今回は藍染めの体験です。 深さ1m余もある大甕に湛えられたやや紅ががったような茶色い深い色合い。 糸束を浸し絞り上げて、三和土にたたきつけた瞬間、 鮮烈な藍色に。 伝統の技の手慣れた流れるような動きと、 一瞬の変化に、ただただ見とれるばかりでした。 #
by tarov-e-log
| 2010-11-01 00:57
| イベント参加記
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by tarov-e-log
| 2010-09-21 23:02
| 自然フォト
先日、梅林寺境内で偶然見かけた山田正之助の墓石。 彼は死後、横浜市外程ヶ谷墓地に埋葬され、 のち東京芝増上寺の末寺花獄院に移送されたといわれています(『久留米人物誌』)。 まさか地元久留米にも墓石があろうとは思っても見なかったので、 大変驚いた次第です(単なる勉強不足かもしれません)。 山田正之助は、嘉永3年(1850)、 久留米藩二百石馬廻役だった山田忠兵衛の長男として、 京隈小松原(現在の久留米市京町)に生まれました。 元治元年(1864)に小倉戦争に出征、のち小性役となり、 慶応3年(1867)には、藩命により坂本金三郎とともに、 江戸の勝海舟塾と海軍繰練所で教えを受けています。 因みに坂本金三郎は、山田家の近所、馬廻組二百石の家に生まれ、 その次男は文化勲章受章者の坂本繁二郎画伯です。 先頃この坂本繁二郎生家が整備公開されましたが、 現在までその姿を留めていたのは、 山田家のご子孫が同屋敷を買い取り大切に住まわれてきたから、 ということだそうです。両家の不思議なご縁ですね。 さて、慶応四年に久留米に帰った山田は、 藩海軍の雄飛丸・千歳(せんざい)丸の乗組員(稽古人)となり、 戊辰戦争にも参加します。 その後、アメリカ留学の志を起こし、 藩主の許可を得て、兵庫裁判所において明治元年11月3日付で海外渡航券第一号(我国初)を得ました。 ウースターのハエランド軍学校、ハーバード大学法学部に入学(東洋人留学生第一号)しています。 そのままアメリカで法律事務にたずさわっていのの、 明治18年に帰国し、横浜で海外貿易に力を注いで日本貿易協会会長を務めました。 明治40年(1907)死去、享年58。 梅林寺の墓石には、「贈従五位 山田※養(いねやす)之墓ヵ」(※はノ木偏に曳)とあります。 彼は、大正4年に官位を追贈されていますから、 その後地元にも分骨などが行われたのでしょうか・・・。 偉大な久留米の先人にまた一人遇うことができました。 追伸:勝海舟の弟子といえば、坂本龍馬が有名ですが、 久留米の坂本金三郎もどっぷり勝先生に傾倒しています。 海舟の子供を抱っこして写ったガラス板写真が残っていたり、 長男には麟太郎義邦と、海舟の名前をそのままもらい受けていたりしています。 しかし、その後の海軍歴は不明で、 残念なことに明治19年(1886)、39歳という若さでこの世を去ったのでした。 #
by tarov-e-log
| 2010-07-12 01:32
| 研究メモ
3年ほど前、仕事で近代遺跡を調査する機会がありました。
それ以来、俄然江戸~昭和初期の物質資料や文献史料などに興味をもったわけです。 このブログでも扱っているように、 現在もいくつかのテーマを中心に史料の収集と研究を行っています。 たとえば、アームストロング砲製造に関わる田中久重関係史料であるとか、 幕末久留米藩における軍備、殉難十志士の事績などなど。 最近は、幕末の御用絵師三谷有信が描いた、 高良山神籠石絵図を再発掘する機会を得たことから、 幕末~近代絵画(日本画・西洋画)にも関心が向いています。 この時代は研究対象としてかなり魅力的です。 何しろ文献史料が多い。 考古資料との突き合わせの作業は非常にエキサイティングです。 歴史考古学の醍醐味を味わうことができます。 一方で、地元には、 まだまだ世に知られていない文献史料などが多いこともわかってきました。 このような情報を提供することができればよいなとの思いから、 有明考古学研究所サイト内に別館「くるめ幕末・近代館」を設置しました。 資料は日々蓄積されていくものの、 なかなかサイト上に掲載する時間がありませんでしたが、 今後はできるだけ積極的な運営をやっていきたいと思います。 大学以来の仲間と、 九州地方における近現代の物質文化に関する研究会を立ち上げる話も進み始めました。 今年は私の幕末近代研究にとって大きな画期になりそうな予感です。 もし興味をもたれた方は http://ariakeari.web.fc2.com/index.html の有明考古学研究所サイト冒頭ページから、 別館くるめ幕末・近代館へお進みください。 追伸:プロバイダの運営が不安定であったため、有明考古学研究所サイトを上記のようにfc2へ移転しています。今後は、研究所本館の方も内容を充実させたいと思います。 #
by tarov-e-log
| 2010-06-14 00:31
| ホームページ更新情報
角材は使用せず、樹皮付き松丸太材と板材で組む。 現地は現在佐野常民記念館の東に隣接している。 三重津海軍所は幕末には単に「三重津」とか「船手稽古所」「海軍伝習方」「御修復場」などと呼ばれたといい、 精錬方の田中久重を中心に、蒸気船の汽罐(ボイラー)を製造・修復、 慶応元年(1865)には、小形蒸気船(凌風丸)を建造した。 護岸は三段構成で、まず上から一段目は杭を打ち込み背面に横板を渡す。 杭の前面には横木を渡し、約2m間隔で打ち込んだ太めの杭に固定している。 この杭の背後には縦方向の胴木が遺存しているので、 調査区外だが、あるいは背後に控杭が埋まっている可能性があると思う。 二段目は枠杭-控杭を縦方向に胴木でホゾを通して連結、 二段目前面には枷杭を詰めて打ち込み、横木を渡している。 この控杭は、一段目の下部でも固定されており、 一段目と二段目が一体化した構造であったことがわかる。 三段目の護岸は横木を両側から打ち込まれた杭で固定する構造である。 このような二段の階段状方形枠連結護岸+一段の杭列という三段構造の土留め方法は、 近世初頭に成立した護岸の枠工法を応用した施工のように見受けた。 もちろん枠組間には、土嚢などを詰め込み、盛土されていたものと思われる。 現地でも砂と粘土が交互に積み重なる状況が確認できたという。 このような構造は、すべり崩壊対策に効果が高い。 因みに説明資料によると、 護岸施設の規模は、1~3段目の比高差1.9m、一段目と二段目の間隔は2.2m、 11区調査と合わせて全長8.6m分を検出したという。 その際に排出される鉄滓などのほか、染付の磁器類が出土していた。「海」「役」などの文字や「灘越蝶文」が描かれたものは、当施設のみで使用された特注品とのことだった。 このことからも、幕末佐賀藩の当施設にかける本気度が伝わってくる。 暑い中大変お疲れさまでした。おかげさまで勉強になりました! #
by tarov-e-log
| 2010-06-06 18:38
| イベント参加記
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