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"東京最初の収集家"野中完一氏の関連する主な略歴を記すと、
住所 東京小石川区原町(明治33年(1900)ころ) ⇒東京牛込区若松町二条公爵邸内(大正10年(1921)ころ) 所属 東京帝国大学理科大学人類学教室 ⇒銅駝坊陳列館(二条公爵邸内) 備考 坪井正五郎の門下。明治30年代に先史遺跡知名表の作成や古墳の発掘調査で活躍。 人類学から歴史考古学へ関心が変遷してゆく。 明治28年(1895)10月、東京人類学会入会 明治29年(1896) 4月、考古学会入会 明治31年(1898)12月、九州へ第1回目の調査旅行に出かけ、筑後国高良山の神籠石を調査(~翌年1月) 明治38年(1905) 8月、二度目の九州調査旅行(~同年10月) 明治39年(1906) このころには銅駝坊陳列館の整理を担当 明治40年(1907) 8月、東京府管内太古遺物陳列場を開設(所属:東京帝国大学理科大学 人類学教室(教室員?)) 明治41年(1908) このころの同大人類学教室の構成は、教授・坪井正五郎、講師・鳥 居龍蔵、助手・柴田常恵、事務員・野中完一 明治43年(1910) 銅駝坊陳列館の主任に就任 大正14年(1925)10月、死去記事が『考古学雑誌』の会員動静報告欄に掲載される 明治31年の第1回の九州調査旅行の時に高良山神籠石を調査し、その際高良山の稲荷山(古墳)で経筒を掘り出していることは、前編でのべたとおりである。 この調査旅行の成果をもとに発表されたものとして、以下のものがある。 明治32年(1899) 2月、東京人類学会第143回例会「豊前稲荷山ノ古墳」 明治32年(1899) 2月、東京人類学会第144回例会「筑後国高良山神籠石に就いて」 明治33年(1900) 4月、「筑後国磐井墳墓発見の石盾に就いて」『考古』1-1 明治34年(1901)12月、「山中笑氏の経石について」『考古界』1-7 明治35年(1902) 2月、「太宰府都府楼廃跡の文字瓦について」『考古界』1-9・10 また、第1回九州調査旅行の際、 「近頃野中氏種々多数の発見物を携へ、帰京せられ候・・・」(「時事だより」『東京人類学会雑誌』156)とあり、 複数の採集品を持ち帰ったことがわかる。 氏は、銅駝坊陳列館を辞した後、青山で道具屋を開業しているが、その後の採集資料の行方は不明である。
by tarov-e-log
| 2007-11-14 20:11
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